親鸞が渡った海(鹿児島)

南谷 朝子

みなみたに あさこ

東京都中央区日本橋出身、2月2日生まれ。都立上野高校~成城大学文芸学部卒業。学生の頃より劇団木冬社(清水邦夫主宰)にて、俳優活動スタート。退団後も、舞台活動を主に映画、TV、ラジオ等で活動中。
1994年~2007年、NANYA-SHIPにて数々の舞台作品を創作。
2004年6月、南青山MANDALAで初ライブ。音楽活動も開始。
日本国内各地でライブ活動を行う傍ら“絵本仕掛けの音楽会”など、演劇と音楽の融合作品を創っている。

NANYA-SHIP~ZOROMEHA企画

南谷朝子を中心に結成されたプロデュースシステムの演劇集団。舞台上で演奏される音楽と芝居の中のせりふ、それらが融合した時のパフォーマンスに早くから着目する。「音楽の中のコトバ、コトバの中の音楽」を常に探求し続けている。選択する作品のテーマを見ると、古今東西の家族や兄弟、血の繋がりにまつわるものが殆どで、誰もが共通に持っているであろう「感覚」がもとになっている。
渋谷ジァンジァンで1994年活動を開始。以後1年に2本のペースで音楽と演劇の混在する舞台を作り続けていた。21世紀の幕開けとともにジァンジァンが閉鎖されてからは、南谷の音楽活動のホームでもある南青山マンダラでの上演も数多い。
尚、南谷は、コンテンポラリーダンス界の第一人者・中村しんじ(振付、演出家)との交流を通し、2000年9月に中村しんじ演出「ピノキオ」(新国立劇場小ホール)の台本を執筆。中村の主催するナチュラルダンステアトルとの共同作業も楽しんだ。
21世紀になってからは俳優:浅井星光とのZOROMEHA企画を共同主催して、NANYA-SHIPで作ってきた舞台製作を継承している。
⇒ZOROMEHA企画

なぜ私は歌うのだろう

長い間私は、「ひとのことば」を身体に入れて泣いたり笑ったりする事を、生業にしてきた。
ひとの書いた「ことば」に、自分の魂が乗り移る瞬間に快感を感じていた。 俳優という生業に。
でも、一方でずっと『何かが足りない』という欠落感が私に付きまとっていた。……『何かが足りない』
20世紀のおわりに、渋谷のジァンジァンで音楽劇を創った。その時 早川義夫 の音楽に出会った。 
『埋葬』という曲を歌う。「足りない何か」の一つが、モゾモゾと動くのを感じた。……それはメロデイーだった。
早川さんのそのメロディーは、その舞台に居合わせた全ての人々を浄化するようだった。
次に、私は小学校の頃の日記を引っ張り出してみた。マンガ付きの「詩」がたくさん書いてあって『詩人になりたい』とあった。 
「足りない何か」のもう一つは、「自分のことば」だと思われた。
21世紀になると、俳優の仕事のお供にギターを抱えていった。
日本の各地をギター片手に歌を口ずさむ日々を過ごした。
『詩人になりたかった』私は「自分のことば」をギターのコードに乗せ始めていた。
2003年、南青山マンダラで音楽劇を創った。 その時も早川義夫の曲「父さんへの手紙」歌った。
ブッキング・マネージャーに「一人で歌ってみませんか?」と誘われ、私は弾き語り歌手への第一歩を踏み出した。
もとより「ことば」を届ける仕事をしている私が、こんどは「自分のことば」をメロディーにのせて歌う。……
歌い始めた私に、耳を傾けるひとが増えて、私を後押ししてくれる。
「もっと、もっと、もっと、南谷朝子のことばを聴かせてくれ」……と。
こうなったら、一人でも多くの人に「私のことばに私の魂が乗り移る瞬間」を見届けて欲しい。 と今は思う。

  2006年1月吉日  南谷 朝子(2021年5月加筆)